我々の魂の中にある文藝を放棄してはならぬ

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幽霊が住んでいる。by哀叶

幽霊が住んでいる。

 私の家には幽霊が住んでいる。
 創作物でよく見るような白装束ではない。ブラウスにフレアスカート、あとカーディガンを羽織ってる。
 でも足は無い。膝から下が徐々に透けていって、足首から先は全く見えない。
 物質をすり抜ける。壁も床も天井も関係なく行き来できるらしい。はっきり言って迷惑。

 幽霊にどうして死んだのか聞いたことがある。交通事故だったそうだ。一瞬で意識ごと無くなって、しばらく死んでしまったのだと気が付かなかったらしい。とまぁその時点で幽霊になっていた彼女がなぜ私の家までやってきて住み着いてしまったのかというと、たまたま事故現場の近くにいた私に一目惚れしたからなのだそうだ。地縛霊の類ではなかったから着いてきちゃった、だそうだ。
 幽霊に好かれて嬉しがるような趣味もないし、はっきり言って迷惑この上ない。だって憑かれてる状態なんだから。よく言われる肩凝りはないけれど、家の中に騒がしい人間——ではなくなったもの——が一人増えてしまったんだからストレスは相当なものだ。知らない人だし、死んでるし。あと普通に気持ち悪い。
「ねぇ、何ぼーっとしてるの。遅刻しちゃうよ? もしかして、おはようのちゅーしてほしいの?」
「うるせー……」
「えー、ひどい!」
 テンションは高いし無駄なことばかり言うし、さっさと成仏していなくなってほしいものだ。成仏とは言わないまでもせめて私じゃない誰かのところにでも行ってくれればいいのに。
「そもそもアンタ何にも触れないんだからできないだろ」
「え、もし本当にできたらしてほしかったなってこと?」
「ハァ? アンタ日本語理解できないの?」
 これ見よがしに溜息をついてやっても幽霊はまるで意に介さずにニコニコと笑ったままで、さらに苛立ちが募る。幽霊はペットと違って餌代や電気代が嵩む訳ではないけれど、これまたペットとは違って癒し効果なんてものは無いしストレスの原因にしかなり得ない。マイナス要素しか存在しないのだ。追い出そうったって触れられないし全部をすり抜けてしまうしで対策の取りようがない。どうしたらこの奇妙な同居生活を終わらせられるのだろうかとここ最近ずっと悩み続けている。
 お祓いに行くことも考えたし、なんなら何度か実行に移したこともあるのだが、そういうときに限って幽霊はどこかへ隠れてしまうのかそれとも神主だか住職だかの力が及ばないのか、何も憑いていないとすら言われてしまうのだ。それならばと私ではなく家全体を祓ってもらっても特に効果はなかった。結界を張っておきましたとも言われたけれど、幽霊には一切効かなかったらしい。愛の力だねとかほざいていたのは無視した。どうせインチキだったんだろう。無駄な出費だった。
「あ、もう出るの? いってらっしゃーい!」
 疲れた体に鞭打って支度を済ませ、幽霊に見送られて出勤する。この生活に慣れ始めてきたのが腹立たしい。コツコツと踵がアスファルトにぶつかる音が妙に大きく聞こえてくる。こんな調子で歩いていたらすぐに靴をダメにしてしまうかと思い直して、落ち着くために数度深呼吸をした。

 帰り道、道路に看板が立っていた。『×月×日に起きた自動車と歩行者の事故について情報を求めています』と書かれているその看板が、妙に気になって仕方がなかった。
 思い返してみる。幽霊が現れたのは、×月ではなかったか。細かい日付までは記憶が曖昧だが、ちょうどそれくらいの時期だったような気がする。幽霊は自分が死んだときのことを詳しく覚えているのだろうか。生きているうちに経験した最後のことだから、よく覚えていたりしないだろうか。なんだか尋ねてみたくなった。
 いつもより歩くのも速くなる。扉の鍵を開けて部屋に入ると、いつも通り幽霊に「おかえり!」と出迎えられた。
「ただいま。ねぇ、アンタが事故に遭ったのって×月×日?」
「えー、急にどうしたの? その日だよ。わたしの命日覚えてくれるの?」
「事故のことってさ、どれくらい覚えてんの」
「え、事故のことー? 全然覚えてないよ。横断歩道渡ってたら横からドーンッて吹っ飛ばされて、起きたら幽霊になってたーって感じかな。血みどろのわたしが足元、まぁ足無いんだけど、に転がっててびっくり! って思ったなぁ」
 あっけらかんと語られる凄惨な事故の様子に思わず息が詰まった。やはりこの幽霊は死人なのだなと再確認させられる。
「ねぇねぇ、なんで急にそんな話したの?」
「帰り道に看板立ってた。×月×日の事故について情報求めてますって警察のやつ」
「警察に話せることないかなって思って聞いたってこと?」
「まぁそうかも。単純に気になったのもあるけど」
 幽霊は「そうなんだ」と相槌を打ったきり黙り込んでしまった。いつものうるささは鳴りを潜めて、真剣に悩んでいるようだった。何を考えているのだろうか。事故の詳細でも思い出そうとしているのだろうか。私にはわかったことじゃないけれど。
「いやー、多分役に立ちそうなことは覚えてないんじゃないかなー。後ろからドーンって吹っ飛ばされたから何にも見てないし」
「幽霊になってからも?」
「うーん、結構時間が経ってから気がついたっぽいから何も見てないねー。気がついたらすぐ本体は病院に運ばれちゃったんだよねー」
「いや、本体って」
「もう! そうとしか言いようないじゃん!」
 怒ったような素振りを見せて、幽霊はふわふわと部屋を飛び回った。スカートがひらりと舞い上がる。空気抵抗なんてないくせに。その姿を見ていれば、帰ってきてから着替えていなかったことを思い出す。寝室に隣接したクローゼットまでのろのろと歩いていけば、幽霊は後ろを着いてきた。どうして着いてくるんだと溜息が漏れた。
「着替えんだけど。どっか行っててくんない?」
「あぁ、そっか。じゃあリビングにいるね」
 壁をすり抜けて戻っていく幽霊を見送って一息つく。一般に幽霊といえば現世に未練が残っているというのがよく聞く言説だ。あの幽霊の未練とは一体何なのだろう。さっさとどこかへ行ってほしいと思っているし、現世に留まり続ける理由を無くす手伝いくらいしてやってもいいかもしれない。お祓いで祓われてくれなかったものだからもう思いつく方法がそれくらいになってしまった。
 のんびりと着替えを済ませてリビングへと戻れば、楽しげな幽霊に出迎えられた。
「今日のご飯は何にするの?」
「野菜炒めてご飯に乗せる」
「昨日と一緒じゃん」
「うるせー。アンタは食べないんだから黙ってな」
 冷蔵庫から食材を取り出していれば、興味を無くしたのか幽霊はテレビの前に戻っていった。電源が入っていないのを忘れていたのか、私にリモコンを操作するように催促してくる。うるさいから面倒になって電源を入れてやれば、何チャンネルにしてだのなんだの注文を付けてきた。黙って従ってやれば満足したのかうるさい口を閉じてくれたので、この間にさっさと夕飯を作ってしまうことにした。

 夕食を食べ終えてシャワーを浴び、疲れた体をベッドに沈める。天井の近くを飛び回る幽霊を呼び止め話しかけた。
「そういえばアンタなんで幽霊になったの。未練とかある感じ?」
「えー、わかんない!」
「あぁ、そう」
 幽霊にそうあっけらかんと言い放たれて、終ぞ望みは潰えたかに思えた。どうやったってこの幽霊に憑き纏われて生きていかなければならないのだろうか。困ったものだ。
「んー、あるとしたらそうだなぁ。名前呼んでほしいかも」
「名前? アンタ私に名乗ったことないだろ。なんて言うの」
「ふふ、内緒」
「じゃあ無理じゃねーか」
 私は幽霊の名前を知らない。今の今まで気にしたことがなかったけれど、私は幽霊の名前を知らなかった。幽霊は私の名前を知っているだろうと思ったけれど、もしかしたら呼ばれたことがないかもしれない。お互いに、名前を知らないのだろうか。急激に頭痛が襲いかかってきて思考が阻まれる。
「アンタはさ、私の名前呼ばないの」
「呼んでほしい?」
「別にそういう訳じゃないけど、気になっただけ。知ってんでしょ?」
 幽霊は少し遠い目をして何か考えるような素振りを見せた。やっぱり覚えていなんじゃないかと考えたところで、幽霊の頬を涙が伝ったように見えた。
「え? ちょっと、アンタ泣いて」
「泣いてない、泣いてないから。心配してくれてありがとね、由佳ちゃん」
 幽霊の口が「由佳」と私の名前を発した瞬間、全身に電流が流れたような衝撃を受けた。濁流のように記憶が押し寄せる。
 それは、紛れもなく×月×日からの数日間と、この数年の内の何故か欠けていた記憶だった。
 幽霊は、谷川琴乃は、あの日私を庇って車に轢かれたのだ。目の前で彼女を喪った私は、すぐに警察と消防に通報して、事情聴取を受けて、彼女の葬儀に参加して、それから。それから、数日バタバタと目まぐるしい日々を過ごした後眠りについて、次に目覚めたときにはその数日間と琴乃についての一切の記憶を失っていた。
 彼女は、私の恋人だった。
「わ、ちょっと由佳ちゃん泣かないでよー!」
「ごめん。忘れてて、ごめん」
「大丈夫だって。名前呼んでくれたら成仏するよ。心配しないで」
「……呼ばない」
「え?」
 ぽたりと涙がシーツへと落ちる。
「呼んだら成仏するなら呼ばない。アンタはただの私に憑いてる幽霊で、ただそれだけだよ。名前なんて知らない」
 嗚咽交じりのその言葉は無事に彼女に届いただろうか。涙を拭って顔を上げると、そこには困ったような表情を浮かべた琴乃が浮かんでいた。
「困るよ。ね、名前呼んで? お願い」
「なんで、困んの」
「由佳ちゃんがちゃんと思い出したから、わたしの役目は終わりなんだよ」
 だからね、お願い。
 甘ったるいその声が脳髄にまで染み渡るような感覚がして、じわりと思考が麻痺する。きっと琴乃は幽霊になったんじゃなくて、私が脳内で生み出してしまった幻覚なのだろう。もう逃げるのは終わりにしないといけない。そういうことだ。それでも、私は幻覚の彼女に縋っていたかった。
「嫌だ」
「お願い。由佳ちゃん、わたしの名前呼んで」
「い、嫌だってば」
「もう意味ないんだよ」
 一緒にいても意味がない。これ以上は意味がない。琴乃は、幻覚の彼女はそう言った。もう谷川琴乃は私の中ですら死んだのだ。だから、意味がない。じっと目を見つめられる。日本人にしては少し色素の薄い飴色の瞳が私を射抜く。あぁ、どうしても呼ばなければならないんだ。これは避けられないことなんだ。そう気づかされた。
「……こ、」
「うん」
「こ、……ことの」
「うん。ありがとう、由佳ちゃん。おやすみ」
 ほんの一瞬、唇に何かが触れたような気がした。それはきっと勘違いだったけれど。

 私の家には幽霊が住んでいた。

 

あとがき

哀叶です。月初めに掌編を今月中に一本書くと宣言した以上書かねばならぬと思い書き上げました。ギリギリすぎるというツッコミはお控えいただけると幸いです。

最近恋愛感情に関する考察を繰り返す日々を過ごしており、せっかくなので恋愛小説を書いてみました。恋愛感情というものは理解するのが難しいものですね。抱えている皆様はきっと大変なのでしょう。

以上、哀叶でした。

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